・出雲伊波比神社(御祭神 大己貴神、天穂日命)
社伝によると景行天皇五十三年(西暦123年)、倭建命が朝廷より東国平定の為遣わされ、毛呂の郷においでになられました。
東国の蝦夷たちの勢いはすさまじく、倭建命率いる朝廷軍は大変な苦戦を強いられました。そうした矢先、命は湧き出る霊水を見つけ、その水で禊をとられました。
心身ともに清められた命は、斎場を定め大己貴神を招き蝦夷平定の成功を祈られました。神助を得た命の軍勢は士気高揚し、鼓・笛の音も高らかに行軍を始め、再び蝦夷の軍勢と対峙しました。
その時俄かに黒雲がたちこめ、その切れ間から巨大な龍が姿を現し蝦夷の軍勢に襲い掛かりました。恐れをなした蝦夷は抵抗を諦め、命の前に朝廷への服従を誓いました。
命の危機を助けた龍は地に臥し、たちまちにその体を山と変えました。龍が地に臥し出来た山なので、土地の人はこの山を臥龍山(たつふしやま、がりゅうさん)といいます。
戦の後、命は侍臣の武日命に命じて山上に社を建て、比比羅木の鉾を神実として大己貴神をお祀りになられました。これが出雲伊波比神社のはじまりであります。
かような経緯から当社は朝廷の崇敬を受け、孝謙天皇御宇天平勝宝七年・光仁天皇御宇宝亀三年には班幣に預かり、延喜式神名帳にもその名が記されております。
・八幡宮(御祭神 品陀和気命)
後冷泉天皇御宇康平六年(西暦1063年)、源義家が陸奥を征定し都へ凱旋する際に、臥龍山に上り出雲伊波比神社を参拝した折に、自身の守り神として兜の天辺に鎮め祀っていた石清水八幡宮の八幡皇大御神の御魂を大己貴神の相殿に奉斎しました。これが臥龍山の八幡宮のはじまりです。
八幡宮の奉祀に併せて、平国の流鏑馬が奉納されました。当社の古式流鏑馬神事は以来950年余りにわたり、連綿とその伝統を現代に伝えております。
・飛来大明神(息長帯比売命)
後鳥羽天皇御宇建久三年(西暦1191年)、空俄かに曇り雷鳴のような大きな音が鳴り響き、臥龍山の御神木の下にまばゆい霊光が飛来しました。当社の神主の祖紫藤蔵人が恐る恐る近づいてみると高さ三尺ばかりの天女の像が鎮まっておりました。
あまりに畏く神々しいものですから、神楽を奏でてその神の御名を問うたところ、「八幡宮の母息長帯比売命である。今後はこの臥龍山に鎮まり毛呂の郷を守護致します。」と仰られたので、別宮を建てて奉斎致しました。遠方より飛来しお鎮まりになられたので飛来大明神と申し上げてお祀りしております。